インターネット美術館 【インターネット美術館・世界の名画】
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インターネット美術館資料室400-bd-004
主題名:ポンパドゥール婦人 Madame de Pompadour
【主題解説】
 ポンパドゥール候爵夫人は、1721年にジャンヌ=アントワネット・ポワソンとして生まれました。彼女の実の父親は、大銀行家ル・ノルマン・トゥルヌエムであり(疑問視されている)、公式な父親はポワソンとされています。父親のポワソンは、銀行家を手伝っていましたが、1725年、借金踏み倒しの一連のスキャンダルで、パリから消え、8年後無実が証明され、パリに戻りました。彼女の弟は、後にマリニー侯爵となります。彼女は、知性があり、美しく、よく躾もされており、ダンスや彫刻を習い、俳優や歌手でもありました。
 9歳のときに母親が占い師のところに彼女を連れてゆくと、いつの日か、王様を虜にすると言われたとのことです。母親は、この予言を信じ、彼女にリネット(小さい王女)と愛称をつけました。
 父親は、彼女がカトリック教に親しんで欲しかったため、1年間、修道院で過ごさせました。修道院から戻ると、家で彼女の教育が再開され、家政学、演劇、絵画、植物学、また男性の魅了の仕方なども教育されました。特に、有名な俳優や歌手を雇って教育した費用は、バカになりませんでした。トゥルヌエムや母親の友達が支払っていたとのことですが、これらの多額の費用の問題が、ポワソンのスキャンダルの噂を引き起こしたとされています。
彼女は、19歳のときに、ル・ノルマン・デティオール(ル・ノルマン・トゥルヌエムの甥)と財政的な援助が誘因で結婚します。このときに王様の森の狩猟場の側の土地もプレゼントされました。彼との間に二人の子供を持ちましたが、一人は1年後に死亡し、もう一人は、男の子で、ファンファンの愛称で呼ばれました。
彼女は、たまご顔に小さい口で、とてもウィットに富んだおしゃべりは、とても魅力的だったと言われます。彼女の若い夫は、すぐに彼女に夢中なり、そして、彼女をパリの社交界にデビューさせました。すると彼女は、社交界で知られるようになり、王様の耳にも届くようになりました。
 彼女の母親ポワソン夫人は、かつての予言が叶えられるよう、彼女を、王様の森の狩猟場に連れていき、王様との偶然の出会いを待ちました。そして彼女は、ついに国王ルイ15世の目に留まり、1745年にベルサイユ宮殿で行われたルイ・ド・フランス・ドーファンとスペインのマリア・テレサの子供との結婚式で、祝われた仮面舞踏会に招待されました。      彼女は、その場で王のいとこコンティ姫によって正式に紹介されました。
舞踏場の彼女の前に、突然8人の仮面衣装を着た人物が現れ(この中のひとりが国王)ました。狩りの女神ダイアナの衣装を着た彼女が、獲物(ルイ15世)を見破ると、すぐに国王は仮面を脱ぎ、彼女をうやうやしい会話に引き込みました。これで彼女は、いつでもベルサイユ宮殿に入れるようになり、正式な公娼に認証されました。ルイ15世は、彼女にポンパドゥールの不動産を買い与えるとともに、侯爵の爵位を与え、夫のデティオールと離婚させました。これで彼女は宮殿で正式に紹介され、すぐに王族の儀典・マナーなどを習得しました。
残念なことに、彼女の母親は、予言が的中したことを知らずに亡くなりました。23歳になる頃には、正式な王の愛人となり、宮殿の中で権力を操り、注目を集めましたが、国際的な同盟関係の中で紛争の種にもなりました。
 彼女には、宮殿の中に、彼女を中傷する多くの敵がおり、この中にはルイ15世から処罰された者もいます。このような彼女の地位の重さから、1756年ベルサイユ条約の件で、オーストリア外交官も彼女に接触してきたりもしました。これは外交革命とも呼ばれ、それは、一時、フランスとオーストリアの間の長い敵対関係を和らげました。しかし、この同盟は、結局、7年戦争を引き起こし、カナダにおけるフランス領の喪失や1757年のプロシアとの戦争の敗北をもたらしました。彼女は、国王を慰め、国王も奮起し、フランスは、その後、国家破産と戦争による領土縮小から脱することができました。このときに彼女は、ショワズールを主要廷臣に送り込んで、彼女の政策支援を強要しました。
 ポンパドゥール候爵夫人は、ロココ様式の内装を好みました。またセーブルの工業の発展に尽くし、ヨーロッパで最も有名な陶器製造の地としました。文学にも造詣が深く、ボルテールなどの作家、エッセイスト、哲学者のアドバイスも受けるとともに、ディドロの百科全書プロジェクトを支援しました。1750年代に、ルイ15世への影響力を増し、軍事問題から外交問題まで政治全体に、知性を持つ彼女の決定が許容されました。
彼女は、実弟マリニー侯爵とともにコンコルド広場やプチ・トリアノンのような建築物も計画し、お気に入りの商人や画家、彫刻家など多数の職人も雇いました。
後年は、自分の代わりの愛人をルイ15世のためにあてがうようにしましたが、42歳で死ぬまでルイ15世は彼女を寵愛したと言われています。
  
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